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  • Author:M
  • blog “夢の巷”
    日々の感想文。

    エレファントカシマシのファンになって1○年。しかし最近はチケットがとれにくくなってきたためめっきりライヴには行かなくなってしまいました。
    近年は歌舞伎マニアと化すが、新歌舞伎座も開場し歌舞伎熱もやや沈静化。

    好きな役者さんは播磨屋=中村吉右衛門、中村歌六、中村種之助、中村米吉。萬屋=中村時蔵、中村梅枝、中村萬太郎。音羽屋さん、大和屋さん(三津五郎さんの方)も好き。上方の松嶋屋、山城屋さんもいけます。

    一番深く関わっているのは美術。ジャンルにこだわらず展覧会に足を運んでいます。
    (プロフィル写真は夜の旧歌舞伎座。)

    メールは hanaotoko [@] zoho.com まで
    (文字の間のブランクとカッコをはずして下さい)
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実に不可解

某F丈のことをあれだけぼろくそに書いてしまってやや気が引けています(ホントか)。
そのうちまた感想を書きたいと思っていますが、その前に気になっていることを。
歌舞伎にのめって本当に日の浅いひよっこだが、色々釈然としないことがある。
自分の悪い癖で、余計なところまでを観察してしまうのがそもそも良くないと判っては
いるのだが。

歌舞伎座での團菊祭を昼夜ともに観たのだが、なんだかお客さんがおかしい。
夜の「青砥稿花紅彩画」通しの蔵前の場で特に顕著だったのだが、本来笑う場ではない
ところで笑う人が多すぎるのだ。

十数年前生き別れた二組の親子が盗賊と大店の主人/息子という形で数奇な再会を
遂げるという、ストーリーの転換点であり、一種悲劇的ともいえる場面で、どっかん
どっかん笑いが起こる。
しかもくすくす笑い、ではなく盛大な爆笑である。

二十年前、何もわからないながら同じ演目を同じ場で見たことがある。
さすがに細部までは覚えていないが、こんな風にお客が笑ってはいなかったと思う。
もちろん私自身大笑いした記憶はない。
ゆめ歌舞伎通ぶるつもりなどないが、何がそんなにおかしいのか、本気で判らない。
こういった「隠されていた身分が実に都合良く、ドラマチックな形で明かされる」と
いう展開は歌舞伎ではごくありふれていると思うし(詳しくないので間違っていたら
スミマセン)、それを笑われてはそもそも歌舞伎が成り立たないとすら思うのだが…。

たまたま成田屋親子が生き別れた親子役を演じていたからといって、爆笑するほど
おかしいシーンだろうか。第一あの場面を笑い飛ばされてしまっては、演じている
役者さん達も立つ瀬がないんじゃないですかねぇ…。
(*以前のエントリーで書いた某F丈は現代のコントの感覚がどう見ても入っているので、
あそこで笑いが起きるのはある意味仕様がないと思う。←おい)

こういうとき、「歌舞伎は大衆芸能」と免罪符のように言われるけど、江戸の大衆と
現代の大衆の感性や前提とされている知識が同じな訳がない。
それをひと絡げに語るのは全くの誤りであると思う。
現代のおじちゃんおばちゃんが普段テレビを見慣れている感覚で蔵前の場を見れば、
あれが一種の時代劇コントのように見えてしまうのも無理はないかもしれないが、
歌舞伎とコント風味の時代劇は似ている点があったとしてもやはり別物だ。
「笑うお客」は歌舞伎を見る人の感覚が明らかに変質していることの徴しであり、
それはつまり古典歌舞伎の危機を意味するんじゃないだろうか。

なーんて、大変偉そうなことを書いてしまったが、所詮初心者の暴論、お目こぼし
頂ければ幸い。
人の感覚は様々、笑えないからといってそれを云々するのは野暮な事なのかとも
思いつつ、それってどうなの、という疑問はどうしても拭えません。
腹が立つとか許せない、というよりは、ぎょっとする、とか気味悪い、に近い感覚
なのですが…とはいえ独りごちてみたところで多勢に無勢、なんか空しい。はぁ。


自己レス。
笑う人たちは、目に見える直接的な現象に対し条件反射で笑っているのかも。
17年振りに肉親関係が判明した親子→成田屋という実の親子がやっている→笑う
忠信利平の台詞「餓鬼の頃から手癖が悪く」→言い回しがおもしろい→笑う
う~ん、テレビ的なリアクションか…。
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