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  • blog “夢の巷”
    日々の感想文。

    エレファントカシマシのファンになって1○年。しかし最近はチケットがとれにくくなってきたためめっきりライヴには行かなくなってしまいました。
    近年は歌舞伎マニアと化すが、新歌舞伎座も開場し歌舞伎熱もやや沈静化。

    好きな役者さんは播磨屋=中村吉右衛門、中村歌六、中村種之助、中村米吉。萬屋=中村時蔵、中村梅枝、中村萬太郎。音羽屋さん、大和屋さん(三津五郎さんの方)も好き。上方の松嶋屋、山城屋さんもいけます。

    一番深く関わっているのは美術。ジャンルにこだわらず展覧会に足を運んでいます。
    (プロフィル写真は夜の旧歌舞伎座。)

    メールは hanaotoko [@] zoho.com まで
    (文字の間のブランクとカッコをはずして下さい)
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堪える…

RSRのメルマガで清志郎の出演キャンセルを知りどどーんと凹んだ。
いてもたってもいられず、You Tubeで70年代のサクセション映像を落としまくった。
正視できないほどまっすぐで硬質なまなざしをした人。
土壇場の大逆転を遠くから祈っている。

「爆笑学問」を見る。
たまに見るときはいつも理系の分野ばかりで、そういう傾向の番組かと思っていたら、
先・今週と東京芸大学長の宮田先生がご出演されていた。
表現すること、伝えることについて、創り手側の考えがシンプルかつ明快な言葉で示される。
どれもこれも共感できるものばかりだった。
誤解をおそれず我が身を投げ出すこと、アウトプットしたら、即座に理解されなくても
その時を待てばよいこと(そして芸術は待てること)、等(多分に意訳含む)。
言葉は指し示すところが明快な分、使い手は誤読のリスクを減らすよう意識せざるを得ない。
逆に、つくられたモノにとって「誤読」とは表現の豊かさ、幅、コミュニケーションの可能性に
繋がる。
表現媒体の違いが創り手の意識の違いとなって表れているのがうかがえて非常に
興味深かった。
(翻ってわれらはモノに立脚しつつ、最終的には言葉での勝負となってしまうのがなかなか
難しいところなのだが。)

RCサクセションを落としたついでに気になっていたちあきなおみの映像も落としまくる。
「さだめ川」も「矢切の渡し」も「さとうきび畑」もちあきなおみバージョンの方が圧倒的に
優れていると思う。
こういう人こそを表現者というのだろう。幼少時リアルタイムで体験できて本当によかった。

エレカシ感想アップがまた延びてしまいました、ごめんなさい…。
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五月大歌舞伎@新橋演舞場(夜の部)小ネタ

エレカシ野音の感想がなかなか書けません。ごめんなさい。
でも毎年恒例のライヴなので必ず何かしらは書きます。

今日は歌舞伎の小ネタ。
五月、新橋演舞場での「東海道四谷怪談」砂村隠亡堀の場の立ち回りのシーンだったか?
そこに流れる長唄の歌詞に聞き覚えがあった。「夜露は尾花と寝たという…」
早川義夫のソロアルバム「かっこいいってことはなんてかっこ悪いんだろう」の「枕歌」と
全く同じだ。
もともとあった戯れ歌を長唄に頂いたのか、それとも最初から長唄として作られた楽曲
なのかは知らないが、それを昭和の、ロックと呼ばれるカテゴリーに分類される
ミュージシャンがごく普通に歌っていたということに驚いた(ただし作詞は早川義夫ではなく
出来里望)。

うろ覚えだが、たしかこの頃早川義夫はバレ歌、猥歌といった俗謡の世界にどっぷり漬かって
いたはずである。それが当時の若者にしては珍しい行動だったのか、それとも若者にとっても
この手の歌曲はまだまだ身近な存在だったのか、残念ながら私は知らない。
だが、今の私の耳にも、この場に流れる艶めいた哀切な曲調と節回しはひどく蠱惑的に
響いた。
闇への引力という点で、四谷怪談と早川義夫の世界はしっかり繋がっている。

1960年代の時点では、まだこれらの表現は「伝統文化」などと呼ぶよりもはるかに日常的な、
人々の身体に深く根ざし半ば生理と化したメロディやリズム、所作だったはずだ。
いずれ俗謡や歌舞伎がポピュラリティを失っていったのはいつ頃のことか、個人的にきちんと
知りたいと思っている。

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